私が書を習い始めたのは、小学校3年生のときです。今の小学生のみなさんと同じように、町の書道教室に通っていました。とくに字がうまいわけではなく、ただ手を動かすのが好きだったのです。それが桐蔭学園中学校に入学して、書道部に入ったとたん、様相は一変しました。顧問でおられた弓納持太無(ゆみなもちたいむ)先生、
つまり今の師匠の情熱に圧倒されたのです。
先生曰く、書は心の表現であると。ただきれいに書いただけというのは作品でも何でもない。自分の魂を紙にぶつけよ、といった具合でした。
学校は進学校でしたから、勉強もたいへんでした。しかし私は、勉強しかしないただの受験生にはなるまいといった変な意地のようなものがあって、書道だけは続けていました。桐蔭学園高校理数科に進むと、書道部が当時なく、同志を集めて書道同好会をつくりました(部員4名!)。
左は中学校時代の部活動(木彫をやっていました。左端が私)、右は校内向けの文化祭のときに書いた作品「誠」です。紙のサイズは3×4メートルで、教室の壁を、そしてちょうど開いた窓の外でプレーしていたテニス部員のウェアまで墨で汚して書いたものです。
今思い起こしてみても、ずいぶん無茶なことをしていたものだと感じます。しかし、もし書をやっていなかったら、勉強を含め日常生活のペースがつかめていたかどうか。好きなことをするのだから、そのための時間はなんとか自分で作ろうとする。それゆえ勉強にも身がはいるのです。ただ時間がだらだらあるからといって、そのまま能率があがるような生き物では、人間は決してないのです。極端な言い方ですが、大学に現役でパスできたのも、書道のおかげであると私は思っています。
さてさて、大学にも、書道のサークルはありませんでした。東京工業大学でしたから、無理もありません。そこでまた同志集めをしたのですが、今度は集まらない。さあどうしようか。
* * *
大学では、機械工学科にてトライボロジーという学問を専攻しました。摩擦力がどうのとか、磨耗量がこうのとかを議論する学問です。19世紀物理学的な地味なところにひかれたのですが、実験装置を動かしていて、摩擦力を示すペンレコーダの針の動きを見ていると、本当に飽きませんでした。実験を繰り返しながら、研究室に寝泊まりする日々が続きました。今思い出しても、涙が出ます。
書道の方は、仲間が集まらなかったので、学生の分際で職員の書道クラブに入れてもらったりして、続けていました。しかし結局、弓納持先生の迫力ある書風の魅力が忘れられず、再びその門をたたいたのです。たまたまその時、梅原奇秀らの同じ世代の仲間がいて、言わば大学外のサークルのようなものができあがっていました。これが私の書道人生において大きな転換期となりました。
その一方で、卒業論文、修士論文を書くときの苦労もまた、忘れられないものです。世界で最先端の研究とは、どのようにしてなされるのか。世界のブレインと言われる教授、助教授、助手などの人達はどのようにして未知の問題を解決していくのか。議論をしながら、そんなことをじっくり観察していました。
大学での研究と言うと、ずいぶんかっこうよく聞こえますが、わからないことを明らかにしようとするのですから、誤った理論を立てて失敗することのほうがはるかに多いのです。普段は重厚な講義をしている教授が、私の実験データを前にしてウーンと考え込んでいる。その表情、あれ?こんな顔、別のどこかで見たことがあるぞ。そうだ、作品づくりでゆきづまったときの我々の顔ではないか!なんだ、人間のすることだったら、機械工学だって書道だって同じじゃないか。
そんなことにふと思い当たったのです。これは収穫でした。人のやっていることはよく見えるものですが、何だって同じだということがわかってしまえば、安心して自分のことに取り組める。よそ見をする必要はないのです。
大学院修士を修了して、会社の研究開発部門に勤めながらも、土日は書道のことで駆け回っていました。師範の資格はそのときに取り、また海外展に参加する機会にも恵まれました。
右は、フランスの国展であるパリ・ボザール展に出品した「心織筆耕」です。心を織り、筆で耕す。まさに筆を持つときの心境であろうと思います。
そして今、書家として生きているのですが、エンジニアとしてよりもその方に魅力を感じて、というわけでもありません。ただ、世界で他に誰もまねできない、最高水準の仕事をしていなければ、たった一度の人生としては足りないなと思います。
数学を勉強するのではない、数学で勉強するのだとよく言われます。問題の解き方を覚えるのではなく、過去の偉人がいかにしてその解き方をあみ出したかを学ばなくてはいけないのです。そうでなくては、新しい問題が生じたときに、また悩まなくてはなりません。書道を勉強するのではない、書道で勉強するのです。