■第9章 折れたイカロスの翼

「充流、どうした?」
「え……?あ、スイマセン白鐘さん……」
またやっちゃった……最近ずっとこうだ。
ホンの少しでも考える時間があると、こんな風に思考が飛んでしまう。
「今日はやめとくか?」
「いえ、大丈夫です。何かやっている方が気が、紛れるから………」



あれ以来、僕はあまり伸吾と話していない。
伸吾の顔を見るとどうしても辛くなってしまって、駄目なんだ。
だからネットワークの方の予定を一杯入れて、仕事で気を紛らわせていた。
「あまり根を詰めるものではないぞ?」
そう言って優しく僕を諭してくれる白鐘さん。
分かっているんです、けれど、今の僕には考える時間などない方が、良い。
そうじゃないと、真っ黒な感情が僕の心を飲み込んでしまう。
いつか伸吾を、壊してしまう………



「………やはり今日は止めにしておこう」
「白鐘さん?」
「顔色が悪い……こんな状態のお前を働かせたら、俺が瞳に睨まれる」
「そんな事……」
未だぐずぐずとパソコンの前から動けない僕を白鐘さんが後ろから抱きすくめた。
「そんなに此処が好きなら、いっその事、此処でするか……?」
「白鐘さん!」
妖しく僕の身体を滑り出した白鐘さんの手を防ぎながら、抗議の声を上げるけど……
「お前がいつまでもパソコンと仲良くしているからだ」
なんなのだろう……?その駄々っ子の様な理由は。
とりあえず、今日はもう仕事はさせては貰えないらしい。仕方なしにパソコンの電源を落とすと、いつの間にか
白鐘さんが入れてくれた紅茶に手を伸ばした。



「あれから山内はどうだ?」
「最近あまり話していないので………」
「そう、か」
そっと吐息を付くと白鐘さんは僕の肩を引き寄せて自分の胸に抱きこみ、優しく背中を撫ぜてくれた。
「大丈夫か?充流」
「大丈夫ですよぅ………」
でも、口では大丈夫と良いながらも僕は今にも泣いてしまいたい衝動に駆られた。
白鐘さんがあんまり優しいから。だからその胸に縋って甘えてしまいたい……
全てを忘れて、白鐘さんに身を任せたら、僕は楽になれる?



駄目だ!
「充流………?」
僕は無意識に白鐘さんの胸を突き飛ばして、彼の腕から逃れていた。
駄目なんだそれじゃ。何も変わらない、進歩もない。
伸吾を愛しいと思いつつ、誰か他の人の腕で自分を慰めるなんて………
伸吾は、違う。
誰にも救いを求めず、彼は自分の思いを貫いている。
僕とはあまりにも違いすぎる………
こんな僕に、伸吾が思う誰かに嫉妬する資格なんて、ない。



「大丈夫です、僕は。駄目なんです、甘えちゃ」
「俺の手は、もう要らないのか……?」
「要るとか、要らないとか、そんな問題じゃないんです」
このままじゃ駄目なんだ。もしこのまま白鐘さんに甘えてしまったら。
僕は今まで逃げてきた。辛い感情から目を背けてきた。
きっとこのままでは、僕は永遠に伸吾を失う。



「立ち向かわないと、駄目なんです。そうじゃないと、僕は………」
「もう、いい充流」
ふんわりと白鐘さんが微笑んだ、今まで見た事が無いような優しい顔。
「強くなったな」
「強くなんか、無いんです。今でも怖いんです、誰かに縋ってしまいたいほどに」
貴方に甘えてしまいたいんです。
だけどそれでは今までと一つも変わらない。
僕も伸吾も、白鐘さんだって、変わり続けていく。
でも、僕の気持ちは停滞したままで、いつまでも変わらなかった………
変わってしまうのが怖かったから、無意識に僕は自分の時間を止めたんだ。



「わざわざスイマセン、白鐘さん」
「別に構わない。こういう事は早いに越した事は無いだろう。そうじゃないと、また勇気が萎えてしまうからな………」
あの後……『どうせなら告白してしまえ。このままでは一歩も前には進めないだろう、俺たちは』と白鐘さんが言った。
最初は、僕も拒否していたんだけど………
その方が良いかも、と思った。
心に膿を持ったまま、いつまでも伸吾と接する事など出来ない。
そんな気持ちが僕を決心させた。



…………なんだろう?校舎の方が騒がしい。
「ねぇ、どうしたの?」
校舎の方に駆けて行く顔見知りを見つけて問い掛けてみた。
「何だか校舎の3階から身を乗り出しているヤツが居るって……!」
え…………?
何故だろう?猛烈に嫌な予感がする。
心はその嫌な予感を打ち消そうとするのに、確信ばかりが深まっていく。
「充流?!!」
驚いたように声を掛ける白鐘さんを無視して僕は走り出した。
早く、早く行かなければ!



校舎前に到着した、僕は。
その時、窓枠から手を離して宙に踊りでた美しい、鳥を見た。
その鳥は、僕と目が合うと、一瞬微笑んだ。
それは、僕が今まで見た中で、一番透明で、美しい微笑みだった。
そして鳥は、羽をもがれたかの如く地に叩きつけられた。
折れたイカロスの翼………
あの、イカロスはどうなったのだっけ?



「伸吾?!!」
僕の魂を引き裂くかのような叫びは、けたたましい喧騒の中に吸い込まれていった。




2003.10.12
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